Echoの日記

ゆっくりと言葉を綴る日々

コラム「人生の問いと哲学」を読んで

少し前になるが、日経新聞のコラム「あすへの話題」に、哲学者の森岡正博さんが書かれた「人生の問いと哲学」という文章が心に響き手元に残してある。

 

森岡さんによると人生の意味について考えるとき、二つのアプローチがあるという。

一つは「人生に意味を与えるものは何か」そしてもう一つは「そもそも人生が存在する意味は何か」。

 

まず「人生に意味を与えるものは何か」については社会に貢献するような仕事ができたときに人生は有意味になるとか、自分の設定した目標を達成できたときに人生は有意味になる

日本経済新聞 2024年2月1日 夕刊)

 

との答えが提案できると、森岡氏は書かれる。

私のような凡人は大きな事業に成功したとか、人類に資する大発見をしたなどあろうはずもないが、確かにドストエフスキーだとか、現在大河ドラマで脚光を浴びている紫式部など世界に名だたる文学作品を残した作家たち、音楽、絵画などのすぐれた芸術作品を残した人々の偉業を見ればその人たちの人生は私たちの人生を豊かにすることにおいて有意味であろう。

 

私が考えられるとしたら、後者の自分の設定した目標を達成できたか、ということであろうが、さて、自分の人生に意味があったなあと人生の終わりに思えるような目標とはどのようなものであろうか。考える価値はありそうである。

 

もう一つのアプローチとして、森岡氏が難題と捉えるのは「そもそも人生が存在する意味は何か」ということである。

 

子育てをしていた頃、私はしばしばわが子らを叱ったり、あるいはお互いに激しくぶつかり傷つけあったりしたとき、「この子はなにも自分の意志でこの世に生まれ落ちたのではなかったろうに、なぜ私は彼、彼女を叱ったり導いたり、自分の考えを押し付けるようなまねをしているのだろう」と悩んだものだ。特に、彼らが人間関係、学業や就職などに悩み疲れ果てているとき、まさしく森岡氏がしばしば尋ねられるという「いつか死んでしまうのに、どうして生きないといけないのですか?」という問いを子供たちからぶつけられるようで、生きていく不条理さを彼らに勝手に与えてしまったことを申し訳なく感じ彼らに詫びたい気持ちさえした。

 

「そもそも人生が存在する意味は何か」。

古今東西の哲学者たちが、考えに考えてもいまだ正面から答えられていないと森岡氏のおっしゃることが私にわかるはずもない。

 

けれども、私はこの世に生まれてしまった。

だとしたら、生まれてしまったからには、私の回りの家族や友人たちが私が死んでしまった後、ああEchoはこんなことを言っていたな、ま、じゃあ自分もこの世にいる限りはEchoのことを時々は思い出して、なんとか前を向いて生きていくかなと、思ってくれれば、それが私にとっての人生が存在する意味なのかなと思ったりしている。