Echoの日記

ゆっくりと言葉を綴る日々

『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー

 

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み終わった。

大学時代に読んだ『罪と罰』に心を打たれて以来、同じドストエフスキーによる名著と呼ばれるこの作品がずっと気になりながら約2000ページという長さに腰が引けていた。

それでも前からちらりと見ては通り過ぎていた、近くの地区センターの読書コーナーに置いてある亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』を、やはり読んでみようかなと手に取ったのが去年の秋。なんと全部読み終えるのに10か月もかかってしまった。

 

最初の出だしは私の心をぐっととらえこのままなら最後まで楽しめそうだと思ったのにだ。

 

私がどこでつまずいてしまったか、そしてそれでも最後まで読むことができたポイントはどこだったのかについて拙い文章ではあるけれど書き留めておこうかなとパソコンに向かってみた。

 

ドストエフスキーはまず最初に「著者より」として、主人公がアレクセイ・カラマーゾフという青年であると述べている。

そして第一部は以下のように続く

アレクセイ・カラマーゾフは、この郡の地主フョードル・カラマーゾフの三男として生まれた。父親のフョードルは、今からちょうど十三年前に悲劇的な謎の死をとげ、当時はかなり名の知られた人物だった。

(『カラマーゾフの兄弟 1 』光文社古典新訳文庫 亀山郁夫訳 p.16)

 

またフョードル・カラマーゾフの人となりはこのように述べられている。

 

......つまり、一風変わった、ただしあちこちで頻繁に出くわすタイプ、ろくでもない女たらしであるばかりか分別がないタイプ、といって財産上のこまごました問題だけはじつに手際よく処理する能力に長け、それ以外に能がなさそうな男だと― 。

(同16ページ)

 

このような非常識な父を持つアレクセイ(以後、主にアリョーシャと呼ばれる)はフョードルの三男だが、長男のドミートリーは先妻との間に生まれ、次男のイワンと三男のアリョーシャは二番目の妻の子供である。フョードルの妻は二人とも三人の息子たちが幼い時に亡くなってしまうが、フョードルは子供たちの養育を放棄し他人に預けて、全く顧みもしないような人間だった。

 

同じドストエフスキーによる『罪と罰』ではほぼ冒頭で金貸しの老婆が殺害されるが、そのときに犯人がラスコーリニコフという青年であることがわかっている。物語は大まかに言えば彼の心の葛藤と救いの話だと理解できた。

 

一方『カラマーゾフ』はフョードルが殺害されたあと、犯人が誰かわからないままで話が続く。誰がフョードルを殺したのか、読者は読み進めながら推理していくのである。

 

恐らく私がつまずいてしまったのはこのあたりにも原因があった。

フョードルは自宅の寝室で殺害されるが彼の死の直前までの様子が克明に描かれているにもかかわらず、ドストエフスキーはその殺害の瞬間をきれいに切り取り全く描いていない。

 

思えばとんでもない人でなしのヒョードルを心から憎み殺したいと思うだろう人物はいくらでもいただろう。

物語が始まり、フョードルが亡くなるまでのおよそ三日間で、登場人物は地理的に何度も移動し事件にかかわると思われるエピソードが様々に入り組んで描かれている。

またこの小説においてかなりのウエートを占めているのが金銭の話で、ルーブルという単位に慣れない上に、ヒョードルが隠し持っていた金、ドミートリーが散財した金額など色々と情報が飛び交い、ここでも私は少し混乱してしまった。

 

けれども、それらのことはゆっくりと頭を整理するとはっきりと理解できる。

私はその手の情報処理能力がかなり劣っているのでこんなにもこじらせてしまったが、この作品の素晴らしさを味わうためになら、頑張ってあらかたのストーリーに食らいついて行く価値は十分にあると思う。

 

一番私を悩ませたのは第2部 第5編 「プロとコントラ」の『大審問官』だ。

『大審問官』は「神も不死もありません」と父フョードルの前などでは断言する次男のイワンがアリョーシャの前で延々と聞かせる叙事詩だ。

 

ここで大事だと思うのはイワンが弟のアリョーシャを深く愛し心を開いていることだ。イワンはこの詩を語る前に自分がこれまでに集めたあらゆる幼児虐待や子供の殺害についての記録の話をする。

赤ん坊を投げ上げ銃剣で突き殺す話、子供を猟犬たちに食わせる話。想像を絶するそれらのエピソードが全て子供に関するものなのは「子供には罪がないから」だとイワンは言う。インテリだと言われ、親の仕送りもあてにすることなく早くから自立し、神などいるものかと断言する鋼の心の内が透けて見えるような切なさを感じさせられる。

イワンは子供たちの涙が何ひとつ償われないかぎり世界に調和などあり得ないと次のように述べる。

 

この世界じゅうに、はたして他人を許す権利をもっている存在なんてあるのか? 調和なんておれはいらない、人類を愛しているから、いらないんだ。それよりか、復讐できない苦しみとともに残っていたい。たとえ自分がまちがっていても、おれはこの復讐できない苦しみや、癒せない怒りを抱いているほうがずっとましなんだ。(中略)おれは神を受け入れないわけじゃない、アリョーシャ、おれはたんにその入場券を、もう心からつつしんで神にお返しするだけなんだ」

(『カラマーゾフの兄弟 2 』p.247-248 )

 

自らを無神論者と名乗ってはばからなかったイワンの、実は神の存在自体を否定するのではなく、それだけではどうしても解決できない世の中の悲しみがあることに対する嘆きが伝わってくるようである。

 

これに近いことは私もずっと感じていて、もちろんイワンのように博識ではないなりに神に祈ることでは癒されないどうしようもない悲しみを人は抱えてしまうことがあるのではないか。そんなとき、人はどうやってそれを乗り越えればいいんだろうというようなことが、ずっと頭から離れないでいた。

 

『大審問官』は「人はパンのみにて生くるにあらず」というイエスの言葉が飢えに苦しみぬく人々の救いとなり得ないのと同様に、神の存在がいかに非力であるかを大審問官の形を借りて訴えている様に思われる。

知りたいと思っていたことについて書かれていると感じたとき何かほの暗い湖の底にぼんやりと光るものが見えたかに思えるようだったが、実際のところは読み進めれば進めるほど、自分の理解がついていけなくなってしまい結局のところはよくわらないままに終わってしまった。

 

このように、この小説の最も大切なテーマの一つである「神の存在と救い」について私はしっかりと理解できなかったということにおいて自分はあまりできのよい読者ではなかったのかなあという気がしている。

 

ただ、わからなかったなりにこの物語の中でもう一つ気付いたことがあるのでそれについて書いて終わりたいと思う。

 

主人公のアリョーシャにとっての信仰について。

 

アリョーシャはイワンが神の存在に対して悲観的な兄に対して「神はいます」とはっきりと答える。

アリョーシャは子供の頃、成績が良かったのにもかかわらず、故郷の亡くなった母の墓の場所を確認した後、多くを語らないうちに中学校を中退し修道僧となった。

 

彼が修道僧になったのはそれ以外に理想の世界はないと信じたからで、信仰の中に真実を追い求めることにだけ喜びを感じていた。

アリョーシャが尊敬するのはゾシマ長老だが、長老の職とは以下のようなものだった。

では、長老とはいったい何なのか?それは人の魂と意志をとらえ、自分の魂と意志に取りこんでしまう者のことである。人は、いったん長老を選んだなら、自分の意志を断ち、それを長老にささげ、その教えに絶対的にしたがい、私心をいっさい捨てさらなくてはならない。この道を行くと心にきめた者は、長い試練をみずから進んで受けいれる。

(『カラマーゾフの兄弟 1 』p.69 )

 

幼くして母を亡くし父からも見放されたアリョーシャにとって、この世の荒海の中で彼を正しい方向へと導いてくれるのはキリスト教でありゾシマ長老だっただろう。

 

そんなゾシマ長老は、アリョーシャに僧院を出て俗世に入るよう勧める。彼はアリョーシャが僧院に入った理由を理解したうえでアリョーシャにとって何が必要なのかを考えそう勧めたのではないか。

実際、何も言わなくても周りから手を差し伸べられるような愛すべき性格のアリョーシャは、よく注意してみると何か人との交流を最後の段階で拒んでしまうようなところのある青年だった。

自らの生い立ちと、カラマーゾフ的気質から逃れることのできない苦悩を彼自身抱えていたのではないかとも感じられるのだ。

 

 

ゾシマ長老は間もなくして重い病に倒れ亡くなってしまうが、訪れる人の悩みを聞き、救い、僧院の聖職者たちからも尊敬を集めていたゾシマ長老の亡骸がまもなくして異臭を放つようになる。これは、当時の聖人においてはあり得ない事実で人々はみな驚きと落胆を隠せないでいた。

そのことはアリョーシャにとっても同じで、筋書き通りではない結果に彼はすっかり動揺してしまう。

 

ところがこの次に起こったできごとは、この長い物語の中で最も美しく、その場所が崇高でひそかな光に包まれるようなものだった。

 

恐らくほとんどの読者はここでゾシマ長老がアリョーシャに残した言葉を感じ、その光の筋が世界中の人々へと降り注ぐような錯覚を覚えたのではないだろうか。

 

カラマーゾフの兄弟』は父殺しの犯人を追うエンターテイメント性と、生き生きとした人物描写、信仰についてと、あらゆる面から楽しめ考えさせられるとても面白い作品だったのだと、物語の終焉に近づくにつれ確信させられた。

 

ドストエフスキー独特の、こちらを煙に巻くような手法に翻弄されそうにもなったが最後まで読み終えることができ本当に良かったと思っている。

 

*****

 

独りよがりな感想もあり、「ハテ、これは?」と思われるふしもあるかもしれませんが一つの『カラマーゾフ』迷走読書記録として読んでいただければ幸いです。

まだまだ、理解しきれていないところがたくさんあり、しかもさらに知りたいとおもうこともたくさんありました。

なので、今度は原卓也さんの訳で読んでみようと思っています。

今度はどのような景色が見えてくるのか楽しみです。