Echoの日記

ゆっくりと言葉を綴る日々

お世話になった町の病院|フランスの思い出


前回の記事で自分の不注意から骨折してしまったことを書いた。

まさか自分がこんなにたびたび整形外科のお世話になることになるとは若い頃には思いもよらなかったけれど、そういえば30年ほど前に夫の仕事の関係でフランスに住んでいた時にも同じような経験をしたのを思い出した。

 

そのときお世話になったのは整形外科ではなく家族ぐるみでお世話になっていた近所の病院だった。

 

幼い娘たちを連れての海外生活で心配なのは病気になったときのことだ。

我が家から車で5分ほどの距離にB先生という médecin généraliste(一般医) のクリニックがあった。médecin généraliste とは風邪やちょっとした腹痛など健康上の悩み全般に対応してくれる医師で、そこからさらに専門的な病院に行く必要があるかを見極めてくれたりもするありがたい存在だ。

 

B先生は背が高く少しくせ毛で水色の目の40歳代くらいの男性だった。アパルトマン(マンション)の一室をクリニックにして、それをもう一人の医師と日替わりでシェアされていた。7年間のフランス滞在中何か健康面で心配のある時はよく彼のクリニックを訪れたものだ。

 

転勤前の下調べでは病院はほとんどが予約制だとのことだったが、そのクリニックはアポなしで構わなかった。元のマンションの様子をあまり変えた形跡はなく、ドアを入るとすぐが待合室で壁際に沿ってぐるりと一人掛けの椅子が置いてあり、あいている椅子に患者が自由に掛けるようになっていた。

 

はじめてそこを訪れたのは当時6歳くらいだった娘が風邪をひいたときだったろうか。ドアを開け二つあいた椅子に娘と隣同士に腰を掛けた。おしゃべり好きのフランス人たちもここでは皆、それぞれ体の不調をかかえているせいか静かに座っている。日本のような受付もなく、ただ腰を掛けて待っているのだ。

 

私はどのように振舞ってよいのかわからず他の患者たちの様子を観察することにした。しばらくしてしんと静まった空気をそっと断ち切るように、隣の部屋へ続くドアが開く。扉をあけたのがB先生だ。それと同時に一人の患者が立ち上がりB先生のほうへ歩み寄る。先生はその人を隣の部屋に静かに招き入れるとカチャっと扉を閉じた。なるほど、訪れる人は自分が椅子に座るときに周りの様子を確かめ自分の順番がいつなのかを確認しなければならないんだな、と理解した。壁に沿ってぐるりと並んだ椅子に座った私たちは静かに自分の順番を待つ。そして先生が自分を呼んでくれた時にそっと部屋に入る。沈黙に満ちたその光景は、まるで司祭に呼ばれるのを待つ懺悔する人々の様子のようだった。

 

病気は罪ではないし、懺悔は列をなして待つものではないとは思うけれども、体の悩みを持ちそれをそっとうちあける私たちは B先生をそのような心持ちで待っていたとしても不思議はないような、そんな気がした。

 

受付嬢から名前を呼ばれたりすることはないのに誰もが自分の順番を理解して、このシステムは実にスムーズに機能していた。

 

時々、ドアをあけ入ってくる人の中にはとても小さな声で "Bonjour(こんにちは)" と先に待っている人たちに挨拶をする人もいて、その中の数人がこれもまた小声で"Bonjour" と返すのだった。

 

私より前から座っている人が一人もいなくなったところで次は自分の番だというのがわかりB先生がドアを開くと同時に娘を連れた私は診察室に迎えられた。

 

ある年の冬、風邪をひいた私は主な症状が治まったあとも咳だけが続いていた。しつこい咳に悩まされていたある日、激しく咳込んだ途端、みぞおちのあたりにずきっと痛みが走った。その痛さがしつこく続くので 少し不安になりB先生の診察を受けることにした。

 

事情を話すと B先生はそっと私の肋骨のあたりを押していき、私が「痛い」というところで手を止めた。診断は肋骨の疲労骨折で、そのままひびが治るまで待ちましょうという。痛み止めが処方されそれでおしまい。なにしろジェネラリストだからレントゲン検査の用意もない。

先生は、痛みが続くようならコルセットなどを考えてもいいけれど、きっと大丈夫でしょうとニッコリ笑った。

 

しばらくして疲労骨折は自然治癒したのか痛みはすっかり消えていた。日本の丁寧な診療に慣れた私からすると少し謎が残らないでもない。骨専門の病院を苦労して探し、慣れない運転で行ったほうが良かったのか、パリ在住の日本人の友人たちが通う日本語の通じる大きな病院に行くのが良かったのか。結局、B先生の見立てに間違いはなかったし、私もその診断が誤っているとはあまり思わなかったので、まああれでよかったのだろう。

 

B先生には、娘が喘息発作を起こした時も、私が持病で困ったときも、色々なシーンでお世話になった。

 

それに、家が近所だったので買い物をしたりしているとばったりとB先生に会うこともあり、優しそうな目で挨拶をしてくれることもしょっちゅうだった。

あのキャビネは今もあるだろうか。

私たち家族がお世話になったその病院は同じくそこに住む町の人々の暮らしと結びついた大切な場所だった。

 

 

 

 

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